落ち葉

塗装が剥げて内の底面が錆びた鍋

それで作るパスタ、なんとなく鉄の味がする

買い替える金が無いわけではないが、大した問題でもない

 

バジルソースが一瓶で180円、パスタが一袋100円

ジャガイモが袋にいっぱい入って190円

これでジェノベーゼが三食分作れる

実際にはパスタはもう少し余るしジャガイモも一袋は使わない

 

あなたが来るからスーパーで買った皿と食器

ここは私の家だから捨ててしまった

来たいならば今すぐに

横になっても目が閉じないから

 

「映画 ゆるキャン△」 感想

 彼らが社会人になるという設定の恐ろしさ、他にも存在する不安要素のため、興味はあるものの見に行くか怪しかったが、ありがたいことに友達が誘ってくれたため、鑑賞。

 予想を遥かに上回るほど、これは間違いなく「映画」で、私にとって価値のある作品だった。決してテレビアニメの2時間版ではなく、世界の狭さを感じさせず、語りうるものである。

 

【あらすじ】

 社会人として日々を過ごす野クルのメンバー。リンは名古屋の出版社で、地元タウン誌の編集者として勤めている。ある夜、大垣が仕事の都合で名古屋に立ち寄り、久々の再会を懐かしむ。彼女は、一度上京しイベント会社に就職したものの、その後転職し、故郷である山梨県の観光推進機構で働いていた。酒を飲みながら、抱えている計画である閉鎖された施設の再開発について相談すると、「キャンプ場にでもすればいい」と答えるリン。それを聞き、大垣は酔いの勢いのまま、山梨までリンを連れていく。そのアイデアは大垣も一度考え、諦めきれなかったものであった。

山梨で小学校教師になったあおい、東京のアウトドア店で働くなでしこ、横浜でペットトリミングサロンに勤める恵那。5人が再び集合し、キャンプ場づくりに挑戦し始める。それぞれが仕事の合間を縫って参加し、大人になったからこそ使える力を存分に行使する。順調に進んでいた計画だったが、問題が発生し、暗雲が漂い始める…

 

【感想】

漫画、TVアニメとして「ゆるキャン△」は田舎の女子高生の、特殊ではあれど日常を描くものであった。これが2時間の映画になるというのだ。私の考えだが、アニメを2時間の尺で作り、スクリーンにかければ、それが映画になるわけではない。映画はテレビの延長版ではない。その点、日常系アニメである「ゆるキャン△」の映画は私に不安を抱かせた。例えば、「のんのんびより」の映画は沖縄に行くだけの特別篇であり、劇場版ではあったが映画ではなかった。同じことが起こる気がした。しかし、予想は見事に外れた。この作品は間違いなく映画だ。

もちろん、ある種のリアリズムを欠いており、それ故に失われている説得力もある。だが、登場人物は自分の頭で考え、それぞれに生きている。大垣が冒頭でこぼす「東京は満喫した」という台詞は印象的であり、一言で時間の流れを感じさせる。大人の力を行使する彼らは、さらに大きな「大人の事情」により停滞を余儀なくされる。終盤、山中の温泉でリンとなでしこが交わす会話は、この時間が奇跡のようなものであることを彼ら自身強く認識しており、それゆえに執着しているのだと伝える。

また、この映画は、その幸福な結末の後も彼らの人生が続くという当たり前の事実から逃げない。ペットのちくわの死が描かれることは無いものの、予感は濃密に漂い、その時が迫っていることは明らかだ。あおいが勤めた小学校は閉校し、新しい赴任先へと向かう。リンは仕事に対して真摯に向き合い、いつまでもここに留まる訳にいかないことを理解している。最後に流れるエンディング曲はこれでもかという程に素直だ。TVアニメで描かれていた箱庭は時を経て世界に接続されている。その世界は開いている。

大人になった彼らの、長い人生の奇跡のようなひとときから我々は何を得ることが出来るのだろうか。不遜ながらひとつ言えることは、この映画は辛い現実からの逃げ場所でなく、私たちに生きる活力を与えるものだということだ。

日常の積み重ねは人生であり、日常を描くことは人生を見つめることに繋がる。その当たり前から逃げず、ひとつの答えを示すこの作品は間違いなく映画である。

 

 

 

 

 

袖なしの季節

 電車を降り改札に向かう流れの中で、ノースリーブで丈の長い黒色のワンピースを着た女の人がいた。裕福そうな雰囲気を漂わせ、両腕に荷物を持っていた。左の腕には、ファミリアの紙袋を提げていた。ひもを通し、重みが腕を赤くしていた。

 リアリティを感じた。

飽き・カウリスマキ

 私の性格はどうやら飽きっぽい。今までも色々なものに凝っては飽きてを繰り返している。今は、映画に凝っている。あとは、国際政治かな。
 今までもたくさんあった。音楽、ロックバンドにはまった時期もあれば、太宰治をきっかけに近代文学、それも純文学と呼ばれるものにはまったこともあった。ジブリにはまったこともあれば、BIllieEilishにはまった時期もある。今も好きだが、当時の熱量は失せており、しかしいつか再び熱中する予感もある。実際、自分の中でリバイバルされたことも何度もある。
 これがどうにも少し寂しいのだ。一度はまると、普通よりは詳しくなる。しかし、それどまりだ。同じ熱量を保ち続けることができたなら、いっぱしのオタクにもなれただろう。しかし、それすらもできない。確かに、はまっている間は本当に楽しい。インターネットをあさり、そこから本を探して読み、欲しいものは買う。これが楽しくて仕方ない。しばらくすれば飽きる。無駄だとは思わないし、少しするとちゃんと新しい何かに興味を持ち始める。自分でも感心するほどに。しかし、寂しい。冷める未来が見えるようになってきたことも寂しい。

カフェイン

 久々にコーヒーを飲むと、テンションが上がってしまった。手に通う神経がふらついている。軽く震えている。血がクルクルぎゅるぎゅる回る。走り出したい、そうすれば少し楽になれるかも。

 アルコールとはまた違う、しかしこれも明らかにまずい反応だ。むしろ酔っているよりも自制が効かなくなっているかもしれない。抑えつけるのが苦しい。

幸福のようなもの

 ひらがなで書いた「しあわせ」の方が、優しい感じがする。

 例えば、小学生を見つめる視線、目を合わせて笑う瞬間、晴れた日にベンチでくだらない話をしている時間。

 

 しあわせであることになんて意味はないとしても。

 何が好きで、何が楽しいのかを聞かれたときに、その定義を答えられなくても、せめて具体例だけでも挙げられるようにしていたい。

ブログ、始めてみます

 この度、一般公開でブログを始めてみます。誰も見てくれないだろうものを大仰に言うのもなんですが、今まで匿名で、しかも非公開だったので改めて始めてみようと思ったわけです。

 

 気が向いたときに書いていこうと思います。YouTubeを見ているのも楽しいし無駄だとは全く思いませんが、飽き性な私のご機嫌管理におけるリスク回避のためには様々な楽しみを用意しておくべきでしょう。

 

 もし、たどり着いた人がいるならば、よろしくお願いします。